経済の量産品として磨耗しないための「発想する底力」
AIをはじめとするデジタルのイノベーションによって、人間の価値をどのように高めていくべきなのか、こどもには何を伝えていけばよいのか、日々不安になります。そんな気持ちを少し落ち着かせてくれそうな触りから始まっていて、引き込まれていきました。
著者は博報堂生活者アカデミーの中村隆紀さん。
www.hakuhodo-seikatsusha-academy.jp
帯のコピーはこう書いてあります。
ビジネスマン、経営者へ
常識を打ち破る人の新しい「学問のすすめ」
それは発想体質をつくり、発想する底力を練磨する、ということのようです。
発想体質にするうえで、まず最初にできることは、目に見えている日常生活に強い好奇心を持ち、小さな欲求を見つけることから始める。日常生活はビジネスにもたらすクリエイティブ・マザーと表現されてました。先入観を壊して、新たな視点を得る。消費者としてではなく、生活者として理解をする必要がある。欲求を見つけるのには、個人的な体験や、生活感覚が拠り所になる。正論ばかりの応酬ではなく、私見をぶつけることで発想は生まれる。あまりに普遍的で、誰も否定できないまともな意見こそ、危険が潜んでいると思ったほうがいい。発想は情報整理ではなく、発想するの初動は、違和感を探し出すことから始まる。小さな違和感を、ポジティブに感じれるか否かが重要となる。無難なセオリーだけを頼りにするのは、発想やアイデアとは呼べず、ただのコピー&ペーストにすぎない。良い発想やアイデアには、論理とデータは、必ず後からついてくる。
マジョリティだけを相手にした戦略では、時間の経過で、コモディティしか生まれない。近道だけが、社会に最適な解をもたらすとは限らないし、発想する底力の練磨に奇策はない。スモールウォンツをストックし、それがフローの仕事のなかで、思わぬブレイクスルーをもたらすこともある。都合良く新鮮なアイデアを発案するのは難しいし、理路整然とリニアなプロセスでは生まれない。日頃のストックがあって、何かがきっかけで一点に寄り、起動する。
経済に合わせたスキルだけじゃなく、思考の土台そのものを修繕しないと人間本来の働き甲斐につながらないのではないかと疑問を持つひとが増えてきた。経済的な業績ではなく、未来の豊かさを目的としたイノベーションこそが、現代に求められている。現在の職業や業績のために成果を発想するのだけでなく、自分の思いを確かめながら、創造性の苗床をつくることが、働き方そのものの厚みを醸成することができる。これからは、利潤の最大化よりも、目的の追求こそが資本主義のテーマになるだろう。すでに、経済的なサクセスを貪欲に追い求めている人々が、本当の意味で幸せな生活をしているようには、ほとんどの人々が見えていない。自分自身もそう思う。もちろんお金は大事です。でも、自分の時間を生きずに、ただストレスに耐えての対価というのは、幸せには全く見えない。今後は、よりダウンシフターが増え、ジモティーと呼ばれる地元をよくしていこうとする人々がもっと増えてくるだろう。
自分が経済の量産品として磨耗しないために蓄えるべき知はなんなんだろうか。
調べてすぐに答えが出るような何かをしていても、高いアドバンテージにはならない。AIなどのテクノロジーのもたらす知は、課題に対する分析や解決はできるが、目的は創造できない。人間の主たる知は、目的を生むためのイマジネーションの土壌。
最近、AIと並んで、自分の環境のなかで、セレンディピティというワードをよく目にします。
Wikiではこう説明しています。
セレンディピティ(serendipity)とは、素敵な偶然に出会ったり、予想外のものを発見すること。また、何かを探しているときに、探しているものとは別の価値があるものを偶然見つけること。平たく言うと、ふとした偶然をきっかけに、幸運をつかみ取ることである。
茂木健一郎さんは、これは能力なんだと言われてるそうです。
私は、よくラッキーだね、みたいなことを言われることがよくあります。確かに、どう考えて自分の努力なしに幸運だなと思うこともありますが、そう思わないときもあります。
なにか目的があると、アンテナにいろんなものが引っかかってきます。それを、すぐに使えないにしても、ストックしていくことで、なにか違う目的がきっかけで、偶然また出会って、それまでのストックがあるから、そのタイミングで「これだ!」と思えるのか、そうでないのか。いまのところ自分はミーハーと揶揄されることもあるので、生活者視点で日常を見ようと思う思考はあります。日常にどれだけ興味を持てるかで、セレンディピティの能力は高めれると思います。これからもできる限り、スモールウォンツをストックしていきたい。